北米にフェラーリを輸入した男たち  | GT Colour Lab™️ #3

北米にフェラーリを輸入した男たち | GT Colour Lab™️ #3


前回までのGT Colour Lab™️ #2はこちら


航空機の技術力が民間の自動車産業の発展につながる

1945年のロッキードP-80プロダクションライン ©️ Alamy


K: 1950年代から60年代にかけてはアメリカの自動車産業が非常に先進的で、NASCAR (ストックカーレース) など北米独自のレースが盛んに行われ始めていました。もともと飛行機や船舶の開発技術は世界的に見てもアメリカが群を抜いて優れていたので、戦後にそれらの技術がいち早く民間に降りて行ったんです。だから、アメリカは自動車産業の発展が特に早かった。

S: そう言えば、日本の軍需産業を見返すと確かに呉に軍港があった広島にはマツダがあるし、スバルも群馬県太田市の中島飛行機が発祥ですよね。日本の自動車の歴史も航空機の技術とは切っても切り離せない。奇しくも終戦の1945年が自動車産業にとって第2のスタートラインになったんでしょうね。

K: 日産自動車の前身であるプリンス自動車工業もそうです。日本は戦後に飛行機の製造を禁止されましたから、航空機の技術力が民間の自動車産業にすぐ転用されていったのも非常に自然な流れですね。



量産化されたメッサーシュミットの後期型バブルカー KR201のカラー広告 (1957年)


同じくドイツだと、戦時中主に戦闘機を製造していた「メッサーシュミット」などは、2度の大戦で何度も航空機の製造を禁止されたため、2輪車や「バブルカー」と呼ばれる小型3輪自動車が生まれています。第二次大戦の終戦当時、元々メッサーシュミットで航空エンジニアとして働いていたフリッツ・フェンドが、戦争で深い怪我を負ってしまった焼夷軍人の「移動用自動車」として開発した「Fend Flitzer 101」を、新たなビジネスモデルを模索していた元の雇用主 ウィリー・メッサーシュミットが目をつけたことがきっかけとなり、量産モデルのKR175として発売されました。
 
S: なんだか可愛らしいデザインですね。
 
K: この様なバブルカーですとBMWのイセッタが有名ですが、戦後自動車メーカーが乱立していた日本でも富士キャビンやテルヤンだったりと個性的なバブルカーが次々と生まれました。この可愛らしいバブルカーも自動車産業の発展を語る上では欠かすことの出来ない存在です。
 
   しかし一方で、戦勝国であった当時のアメリカの開発スピードは凄まじかった。フォードやシボレーなど国際レースでもアメリカ製エンジンを使用した車の参戦は多く、大きなインパクトを残していたと思います。



 ©︎Trinity Mirror

S: そう考えると1900年初頭のうちに、将来を見据えて自国開催の大会を重視する方針で舵を切ったアメリカはやっぱり正しい選択だったのかもしれませんね。*ヴァンダービルトカップの様な国際大会を繰り返すうちに、アメリカ全体の機械産業は磨かれていったのかもしれない。

K: ヴァンダービルトカップには、シボレー創始者のルイ・シボレーもレーサーとして参加していました。また、フォードの創始者であるヘンリー・フォードと先述の アレクサンダー・ウィントン ( 第1話参照 ) が共に熾烈な開発競争を繰り返していた記録も残っています。これらが後に自動車産業の発展だけでなく、航空機などの技術開発へと発展していったのは間違いないでしょうね。


ヴァンダービルトカップの創始者、ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト2世 (1908年)

 
 

北米にフェラーリを輸入した男たち

S: ところで、ブリッグス・カニンガムはフェラーリやジャガーでも参戦していたんですね。僕からするとヨーロッパ車での参戦は正直意外な気もするんですが。

K: いえいえ、カニンガムはレーサーやチームオーナーだけでなく、自動車のコレクターとしても有名ですよ。アメリカで最初期に持ち込まれたフェラーリを購入した1人がカニンガムだと言われていて、1949年に初めてアメリカに輸入された「166 Spider Corsa」をルイジ・キネッティの元から購入して、翌年のロングアイランド・エアポートレースで優勝しています。
 

NY郊外のBridgehampton race circuitにエントリーした
Ferrari 166SC 数少ない貴重なカラー写真 June 9, 1951


S: スケールが違いすぎる。だってフェラーリって1947年に初めて自社製の自動車を作ったんでしょう?その2年後にはいち早くアメリカに輸入してレースをしていたなんて、正に全ての行動が自動車の世界史に繋がっている。

K: 今でこそ世界的な知名度を誇るフェラーリですが、1947年のイタリアの市街地レースで初優勝したばかり。翌年のミッレミリアやタルガ・フローリオでは166SCで勝利しましたが、国際的にはもちろんまだ無名です。
アメリカの自動車マーケットには、1950〜90年代頃までは普通に「レースに勝てば車が売れる」というシンプルなセオリーがありました。その頃、アメリカのレースで活躍してフェラーリ販売のビジネスを拡大しようとしていたキネッティにとっては、カニンガムのように著名なパートナーを味方につけたのは渡りに船だったのかもしれません。




S: フェラーリ黎明期の話ですね。LUIGI CHINETTI MOTORSが発行した250TRの広告でも、レース成績を声高に語っている...。ちなみにこの当時のスペルは “TESTA ROSA”になっていますが、アメリカとイタリアで違いがあったんですか?
 
K: 本当だ、確かに。テスタロッサのスペルは “TESTA ROSSA” (1984に発売されたのはTestarossa) ですから、Sがひとつ足りませんね。当時の広告物は活版印刷の時代ですから単なる誤植か...それともアメリカでの販売を考えて、スペルをわざわざ ROSA (薔薇) に変えた可能性も捨て切れませんね。これに関しては少し調べてみましょう。いずれにせよ当時の広告は本当に様々なカルチャーを感じ取ることができる、貴重な情報源ですね。
 
S: 「ローザ」には女性の名前の様なイメージもありますし、もしかしたらアメリカでは当時「テスタローザ」と呼ばれていたのかもしれませんね。古い広告グラフィックはいくら蒐めても飽きないな。

 


1954年のルマン24時間。写真中央がCunningham C-4R, 右がFerrari 375MM


K: そして、カニンガムは1952年のセブリング12時間、1954年ル・マン24時間には2台のCunningham C-4Rに加え、フェラーリ375MMでも挑戦しています。この頃からしばらくはCシリーズでの参戦がメインとなりますが、1956年以降はジャガー、OSCA、キャリア終盤にはマセラティやポルシェなど、あらゆる車種でレースに参戦していました。 

S: Cシリーズばかりに目が行ってしまいがちですが、カニンガムストライプに染められた欧州車も魅力的なブランドばかりですね。

K: ちなみにルイジ・キネッティはイタリアからアメリカに帰化した人ですが、フェラーリの全米独占販売権を持っていました。後にN.A.R.T.(North American Racing Team)を設立した人としても有名です。NART ナートといえば、この車は見たことあるんじゃないかな。


Daytona International Speedway 356GTB (1977年) ©️The Revs Institute


S: この形はフェラーリデイトナですね。色のコンビネーションが格好いいのでこのカラーリングはとても印象に残っていますよ。あ!ちょっと待ってください。このセンターに走っているホワイト&ブルーのストライプってもしかして…

K: そうです。これは間違いなくカニンガムストライプから派生したアメリカンナショナルカラーですね。ちなみに一時期F1にもNARTフェラーリが登場したこともありますが....キネッティとNARTに関しては話し出すとキリがないので、また「ロッソコルサ」の話をした時にでも詳しく話しましょう。

 






無名だったイタリアンスポーツカーは、
優れた先見の明を持つ、アメリカの男たちによって、
北米で強烈なブランド力を確立していった。
フェラーリの歴史は、
アメリカのモータースポーツ史と
複雑に絡み合っている。
 
ここに積載されている全ての車が、
後に巨額の美術品となることを、彼らはまだ知らない。
via The Henry Ford
Luigi Chinetti Motors,

New York City 1964


 

【連載企画】 GT Colour Lab™️
         次回 は7月8日(金) 更新予定です。






 
Cover Photography via The Henry Ford 
( Dave Friedman collection, 1946-2009 )

※ベンソン・フォード・リサーチセンター (ヘンリーフォード博物館)が所蔵する写真。NYのLuigi Chinetti Motorsで積載されるFerrari 275 P (1964年)