隻腕のアーチー  | GT Colour Lab™️ #5

隻腕のアーチー | GT Colour Lab™️ #5

前回までの GT Colour Lab™️ #4はこちら



悲運を乗り越えて


K: LISTER MOTOR COMPANEY (通称:リスター・カーズ) は1954年にケンブリッジにあるブライアンの実家の錬鉄所を利用して、仲間友人数人で立ち上げた小さなレーシングカーファクトリーでした。主要メンバーは、シャシーを設計・製造するブライアン・リスターと、機械とエンジンの名手 ドナルド(ドン )・ムーア、そしてレーサーは、ブライアンの1歳年下である、アーチー・スコット・ブラウンです。

S: なんだかガレージで立ち上げたスタートアップ企業のようですね。

K: ケンブリッジ大学自動車クラブがきっかけで知り合った3人ですが、中でもスコットランド人レーサーのアーチー・スコット・ブラウンは、過酷な運命に翻弄された、ある意味「伝説のレーサー」としてその名を刻んでいます。

S: “ある意味” 伝説のレーサー?当時のレーサーは皆揃って過酷な運命というイメージという気もしますが…。
 


K: アーチーを語る上では、彼の出生の物語から知る必要があります。アーチー (本名: William Archibald Scott-Brown | ウィリアム・アーチボルド・スコット-ブラウン) が生まれる少し前の1927年の5月のことです。

父親であるビル・スコット・ブラウンは、コンバーチブルに乗って映画館に向かっていました。その日は雨が降っていましたが、ビルは気にせずアクセル全開で屋根を下げたまま走行していたそうです。その何気ない不用意な行動が原因で、ビルは肺炎をこじらせてしまいます。そして、事もあろうに出産を控えていた母親のジャネットに感染してしまい、彼女は風疹を発症してしまいました。

S: 妊娠中に風疹ですって!?なんだか嫌な予感がしますが...。

K: ビルは肺炎の症状が酷すぎて、アーチーの出産にも立ち会うことすら出来ませんでした。彼の肺炎は、生死の境を彷徨うほどの重症だったそうです。スコットランドのペイズリーにある自宅にでは、多くの医療関係者が、出産を控えた母親ジャネットと、瀕死の父親ビルの懸命な治療にあたっていました。そして1927年5月13日の金曜日。混沌とした状況の中でアーチーは誕生します。

S: その状況で、アーチーは無事に産まれたのでしょうか?

K: 残念ながらアーチーは、彼の母親が妊娠している時にかかってしまった風疹の影響で、四肢のうち3つに重度の障害を持って生まれました。右の前腕がなく、肘の下に親指と小さな掌がついていて、両足もねじれていました。そして、左足はほとんど後ろを向いていました。右足は直角に90度を向いていて、正常なのは左腕だけだったそうです。

S: 四肢のうち3つに重度の障害を持って生まれたなんて、話だけ聞くと絶望的な状態ですね。きっとご両親はさぞかし切なかったでしょう。

K: 父親であるビルは、肺炎から回復後にアーチーをどうやって治療すべきか考えていました。ウェールズ・グラスゴーの病院で医師に相談した結果は、やはり足を切断して義足をつけることでした。その頃はまだ傷痍軍人も多く、義足の技術や施設が整っていたんですね。しかし、幼い子供には非常にリスクが高い施術で痛みも避けられません。そして、術後も施設で生活することとなることになります。

S: 幼子にとってはあまりに過酷な生活ですね。

K: 両親はその医師からの提案をどうしても受け入れることができなかったそうです。そもそも、第一次大戦中にはイギリス王立飛行隊のオブザーバーを務めていたほど、スコット・ブラウン家は名誉ある裕福な家庭でした。ビルとジャネットは今で言うセカンド・オピニオンの様な形で、より良い治療を受けられないかとイギリス中の医師を当たったそうです。

S: 正直、今の医療で考えてもかなり難しい状況だと思いますが、ましてや1920年代ですものね。当時の医療でその凄まじい障害を治療することを考えると、情報収集も含めて非常に困難だったでしょうね。

K: きっとそうだったでしょうね…。しかしそんな中、夫妻は1年半の歳月をかけてバーミンガムにある1件の病院を見つけます。その病院には、イギリス国内の障害分野では最も素晴らしい権威の医師が在籍していました。彼はアーチーの今後の人生を考えて、当時考えうるであろう最善の回復手術の計画を立てました。



1928年のバーミンガムの街並み。 18世紀から19世紀にかけての産業革命によって、国内随一の工業都市として大きく発展し、 医療レベルも高かった。



小さなレーサーの誕生

 
1929年5月13日。アーチー2歳の誕生日。彼の生涯を変える大きな手術が始まりました。正直、言葉にすることが息苦しくなるほどの長く、過酷な手術が2年間22回に渡って続きました。そして、1年間のギプス矯正と厳しいリハビリの後に、アーチーは当初の目的であった治療を終えることに成功します。

S: 2年間で22回!? 幼いアーチーは本当に厳しい運命に耐え抜いたんですね。小さな体で本当に良く頑張りましたね。身体の自由が効かない中、きっと健気に頑張ったんでしょうね。

K: …ところが、4歳になったアーチーは我々の想像を絶するほど、非常に活発になっていたそうです。病院の中ではギプスカートを押してもらいながら方々で大暴れしていたようで…。アーチーは決して障害者の雰囲気ではなく、少年期に差し掛かる頃には、その脚や腕を巧みに使いこなして運動神経が抜群になっていたそうです。

S: あれ、ちょっと意外な展開 (苦笑) 

K: アーチーが7歳になったある日、ビルはアーチーにおもちゃのペダルカーを作ってあげました。実は、父親がアルヴィスのワークスドライバーであり、アルヴィスのディーラーを経営していました。そして、母親のジャネットは、ブルックランズで2度レースに出場していたほどのレーサー夫婦だったんです。

1920年代当時のALVISの広告   ©️Retro AdArchives | Alamy

最初はもちろん足が不自由な息子のために、車椅子感覚で乗れるおもちゃを用意したはずだったのですが、近所の小道で危険運転で暴れ回り、わんぱくなアーチーはそのペダルカーで遊んでいる最中、門に突っ込んで大クラッシュ。アーチーは両親にこっぴどく叱られて、ペダルカーをあっという間に取り上げられてしまったそうです。

S: 重度の障害を持って産まれたとは言え、イメージする様なひ弱な子供ではなく性格は相当なやんちゃ坊主だったんですね。

K: それから数年後の10歳の誕生日。おもちゃのペダルカーは125ccの芝刈り機用のエンジンと3足のギアボックスが付いて帰ってきました。その小さなカートとの出会いが、レーサーアーチーの誕生のきっかけでした。喜んだアーチーは、近所のペイズリーの小道を使って、後の代名詞となるドリフトなど、様々な運転技術を手に入れたと伝わっています。この時に身につけたテクニックは、やがて手足の様に研ぎ澄まされた感覚に成長していきました。その後アーチーが自動車のレースに憧れを抱く様になるのは時間の問題だった様です。

S: 少しづつアーチー物語の輪郭が見えてきました。この子が後に伝説のレーサーになるなんて、まるで創作された物語の様ですね。

K: ただし、母親はやはりレーサーになることにはあまり前向きではなかったようですよ。あれだけ度重なる手術とリハビリの日々を経て、ようやく普通の生活を手に入れたにも関わらず、危険なレースの世界に身を置くのには、母親であれば間違いなく反対だったと思います。ただ、アーチーはそんなことを聞くような子供ではなく…苦笑 

S: そこからどんどんレーサーとしての素質を発揮していったんですね。残酷なハンディキャップの運命を跳ね除ける強いメンタリティと、両親から受け継がれるレーサーとしてのDNA。

K: 実際にアーチーはドライバーだった父親からブルックランズサーキットの跡地でラゴンダV12 を使って運転を教えられていたと言う記述も残っています。きっと先天性の部分だけでなく、環境的にも運転技術を高めやすかったのかもしれません。 

アーチーが母ジャネットと映る貴重な写真 ©︎motorsporthistory.ru    

 
そして青年に成長したアーチーは、周りから障がい者というレッテルを貼るのも憚られるほどに、さまざまなスポーツ分野で「健常者」を圧倒していました。セント・アントリューズ大学在学中も彼の運動神経はずば抜けていて、特に自転車レースでは4年連続優勝するなど抜群のバランス感覚を持っていたそうです。

S: 想像のはるか上を行ってますね。一般的に考えると彼ほどの酷いハンディキャップを持った人であれば、まず一般的な運動に追いつくのがやっとというか、時代を考えても差別の対象になってしまう可能性もあったと思います。むしろ、重度の障害を持って生まれたことで、一部の彼の能力が極端に研ぎ澄まされていったとしか考えられません。

K: きっと実際は障害のために苦労をしたことも相当あったと思います。しかし、当時の彼を知る人が言うには、本人は障害をあまり気にしている様子はなく、ユーモラスで非常に明るく気さくな男だったと振り返っています。




復興するモータースポーツ


アーチーは22歳の頃、就職研修生として故郷のセント・アンドリューズを離れ、「ドビーズ 4 スクエア」というタバコの、イングランド東部 イースト・アングリア地方を担当するセールスマンとして働きはじめたそうです。失礼ながら、1940年代当時の彼の容姿で「セールスマンとしての仕事」が与えられていたということは、人格的にも相当な魅力があったに違いありません。

S: 徐々に彼の人柄が浮き上がってきます。そこでアーチーはイングランドに渡ったんですね。

K: そしてこのイースト・アングリア地方での活動によって、隻腕のレーサー、アーチー・スコット・ブラウンの運命が動き始めます。この時期ヨーロッパでは、第二次世界大戦中に活動を禁止されていたモータースポーツが、にわかに復興の動きを見せ始めていました。1949年のル・マン24時間の再開や、1950年にシルバーストンで開幕したFIA世界選手権 (Formula 1)のような、国際的なレースが始まったのはまさにこの時期です。イギリス国内のモータースポーツは、まるで戦後の復興を象徴とするように大きく盛り上がり始めました。

1951年製のMG TD  ©️Rex Gray | Wikimedia commons


そしてその頃アーチーは、レース車両としてMG TD (XS 6931)を購入し、イースタン・カントリーズ・カー・クラブ 通称 E.C.C.C.と言うイースト・アングリア地方独自のカークラブに所属したり、ケンブリッジ大学の自動車クラブの会合などに関わりながら精力的に活動していました。

S: なるほど、あのケンブリッジ大学に自動車クラブがあったんですね。

あれ? でも確かアーチーはスコットランドのセント・アンドリューズ大学を卒業してましたよね。どうしてすでに社会人だったアーチーがケンブリッジ大学の自動車クラブと関わりがあったんでしょうか?
 




 

レーサーを夢見る小さなセールスマン、
アーチー・スコット・ブラウンは、
ケンブリッジ自動車クラブで運命の出会いを果たす。
この出会いから生まれた奇跡が、ジャガー・カーズの総帥
サー・ウィリアム・ライオンズの耳に届くまでに、
そう時間はかからなかった。


【連載企画】 GT Colour Lab™️
          次回をお楽しみに

 Cover Credit
Lister Jaguar with Archie Scott Brown
1957   ©️Motoring Picture Library | Alamy
©️Heritage Image Partnership Ltd | Alamy
©️George Phillips Photograph Collection | Revs Institute